社長より皆様へのご挨拶
弊社は祖父が戦時中、山形県より兵役で上京したのを縁に、北区田端新町に移り住み、木工製品化工業からスタートしました。
1962年に「志村電気木工所」として会社を設立、その後時代の流れにより、父が建築塗装業の「志村建装」として業務転換、以後25年を経て3代目の私が社長になっております。
今では塗装工事専門会社として一般的な塗装工事はもとより、光触媒塗装、遮熱断熱塗装、通気緩衝防水などの特殊工事もさせていただいております。
今日まで地元のお客様、工務店様をはじめ多くの皆様の応援に支えられ、この地で会社設立以来50年以上の長きにわたり、一歩ずつの成長を積み重ねていくことができました。
塗装というのは建築現場では最終工程の「仕上げ」です。
美しくなった建物を見て、お客様の喜んでくださるお顔を直接見ることができる、塗装業とはそんな素晴らしい仕事だということを、私はお客様から教えていただきました。
いつまでも皆様に喜んでいただける仕事をすることが、私たちの使命=「志」である、弊社のロゴマークにはそんな想いを込めてデザインしました。
これからも皆様への感謝の気持ちを忘れることなく、地元地域への貢献をしながら、さらなる歩みを続けてまいります。
アルバイトは実家の家業。現場経験が修行になった。
学生時代は、アルバイトとして家業の手伝いに励みました。
いち早く現場での経験が積めたことが、ありがたかったと言います。 アルバイト兼、修行にもなる。ペンキ屋としては最高の環境でした。
学校ではバレーボール部のキャプテンとしてチームを引っ張りました。
真面目一筋の性格が、そのまま現在の仕事に活きている、とも感じています。
父の会社を継いで、三代目社長に。仕事仲間は、家族とおなじくらい大切。
大学卒業後は、父の会社を継ぐべく、父の元で修行しました。
そして、会社を引き継ぎ、三代目社長になります。結婚し、迎えた妻も、事務処理や経理を担当し、会社を支えてくれています。
今では3人の子どもの父親です。幼いころ、自分が父にあこがれたように、自分も「子どもにあこがれられる父でいなければ!」と、身の引き締まる想いです。
スタッフとして働く職人たちも、家族同然の仲間です。
「タイル職人や、シーリング職人あがりだったり、様々な現場で力をつけた職人が会社にいてくれる。
おかげで外注費を抑えてお客様に還元できるし、また、彼らから技術を学ぶこともできる。」
スタッフ全員が一丸となって、仕事に取り組んでいます。
何よりも自慢なのは、従業員のマンパワーと、誇れる仕事をしてるという職人の心。
塗装業界の過当競争から、様々な業者の入り乱れる昨今。
経営者として、会社をどう位置づけていくか考えた結果、短絡的な事業拡大ではなく、地元にしっかりと根を下ろし、重要視するのは従業員の気持ちとの結論に至りました。
「他社との違いが出せるのはやっぱり人。従業員には本当に恵まれていると実感します。」
地域に根付いた仕事で、自分を育ててくれた地元に還元すること。
そして、若い人を育てていく環境をつくるということ。
「社長のワンマンの会社じゃだめ。従業員1人1人が自分の会社という意識で取り組んで欲しい。」
「工務店からの仕事は、新しい材料を試すこともできるし、職人の技術向上にも繋がる。」
志村社長が目指すのは、地域と一緒に育っていく会社であること。
父から受け継いだ職人の心を、たくさんの人に伝えること。
それが志村建装の使命だと感じています。
これからも、まじめに、実直に、仕事をして、愛される会社を目指していきます。
どんなお子さんでしたか?
スポーツが得意で、特に足が速かったので、運動会はいつもリレーの選手でした。
両親、祖父母、姉、妹の7人で暮らしていましたが、とにかく祖父にかわいがられて、もの心ついた頃にはいつも祖父母の間で寝ていました。
学生時代はどうでしたか?
バレーボールに青春のすべてをかけていました!!中学ではキャプテンを務め、都大会に出場したことも。
高校は都立で共学の進学校でしたが、僕のクラスは理系の男子クラス。バレー部も女子マネージャー禁止の硬派な部でしたから、とにかく男くさい!
真夏に水も飲ませてもらえず、練習がきつくて吐きながらやってました。そういう時代ですね(笑)
高校卒業後、志村建装に入って、また2年後に大学へも進学したそうですが?
はい。この当時、いろいろあって...。
親戚の会社が倒産して、連帯保証人だった父のところに莫大な借金がのしかかってきて。
住んでいる家も会社もどうなるか分からない状態で、父は裁判だなんだと仕事どころではなく走り回っていたので、とても大学に行きたいなんて言える状況ではなかったんです。
この頃に父が将来性を考えて会社を家具・木工関係の仕事から、塗装業に変換して、僕も高校卒業後すぐに手伝うことになりました。
でも、まわりの同級生たちは大学に進学していて、僕もずっと進学するつもりでいたので、他人に振り回されたまま、やりたいことをあきらめるのはどうしても納得がいかなくて。
家業を手伝って貯めたお金と奨学金で大学に行かせてほしい!って両親を説得したんです。
大学の授業がないときは仕事を手伝う約束で許してもらいました。
その大学の卒業式で総代をされたそうですが?
過去の栄光です(笑)
いろいろあって、やっとの思いで通わせてもらえるようになった大学ですから、お金も時間も無駄にしたくなかった。
勉強も遊びもめいっぱいにやりましたね。
ただ、大学も理系のとこだったんで、どこに行くにも男9人でつるんでいて...やっぱり男くさかったですね~(笑)
その後、志村建装に本格的に入社されたのですね?
はい。他の職業に就きたいと考えたことがないわけではないですが、4年間だけという約束でしたから。
でも、やるからには自分らしく、この仕事にやりがいと誇りを持ちたいと思いました。頭の先から足の先まで全身汚れながら、とにかく一生懸命やりましたね。
ときには失敗したり、お叱りを受けることもありましたが、自分の仕上げた仕事を施主様や元請け会社の方に「志村さんにお願いしてよかった」「また次もお願いしますね」と言ってもらえることがうれしくて、何より自信につながりました。
そうか、塗装業は建物を美しく仕上げることでお客様の喜ぶ顔を直に見ることができて、お客様を幸せな気持ちにしてさしあげられる素晴らしい仕事なんだ!と気付いた時、自分はこの仕事で生きていきたい!と本気で決心がつきました。
施工事例をみると雑誌掲載された物件がたくさんありますが?
はい。ご縁があって、お世話になっていた大工の棟梁がとても人脈の広い方で、いろんな建築家やデザイナー、有名人のお宅などを手掛けていて、その塗装部門を僕に任せてくださったんです。
とにかくどの仕事も今までに経験のないような要望ばかり、でも失敗はゆるされませんから、期待に添えるかどうか、緊張しますし...どれも本当に大変でしたね~。
でも、こういう仕事で認めてもらえた時、やっぱりやりがいと職人としての自信がつきました。
本当に貴重な経験をたくさんさせていただきましたね。
イラストレーターのこぐれひでこさんのお宅はその後何度となく雑誌やテレビで紹介されてますが、見るたびその当時のことを思い出します。
自分の手掛けた仕事が雑誌など別の形として残ったことも、とてもうれしい経験でした。
39歳で社長に就任されたそうですが、経営論をお聞かせ下さい。
僕にとって、うちで働いてくれているスタッフも家族と同じくらい大切な宝です。
自分の家族を守るだけではなく、彼らとその家族も守ならければと思っています。
そのためには、会社を強くすること、何事かあっても、簡単に倒れない会社を。
今までは塗装の技術や、営業のやり方を独自の経験から学んできましたが、これからは経営についても勉強が必要だと感じ、いろんな勉強会やセミナーに参加し て、たくさんの人や企業と出会い、情報や刺激を受けたり、本を読んだりもしています。妻も経理・事務処理を担当し、ともに会社経営について学んで、僕をサ ポートしてくれています。
父のときは会社と言っても身内だけでしたし、いわゆるワンマン社長でやってこられました。ですが、今は時代も、置かれている環境もまったく違います。
常にアンテナを張って世の中の流れをつかみ、5年、10年先を見据えた経営をしていかないことには、あっという間に取り残されてしまいます。僕には守るべき、スタッフとその家族がいます。
僕を信じてついてきてくれる彼らに、10年、20年先になったときに「この会社で働くことができてよかった! と言ってもらえるような会社にすること、それがこれからの目標です。
プライベートではお子さんが3人もいらっしゃるとか?
長男・長女・次女の三人子持ちです。先日長男・長女の通う、僕の母校でもある小学校の創立90周年祝典に出席したのですが、その時配られた文集に長男が「将来は塗装屋さんになりたい」って書いていたんです。
小学5年生の夢が塗装屋?...ちょっと複雑な気もしますが、正直、うれしくて泣きそうになりました(笑)
特に思いつかなかっただけかもしれないけれど、少なくとも、僕のがんばっている姿を見てくれているのかな、と。
10年後でも息子に「塗装屋さんになりたい!と思ってもらえるように、父親として、職人として、経営者として恥ずかしくない生き方をしていこう!!
改めてそんな気持ちになりました。
【志村徳彦経歴】
文京区 都立駒込病院生まれ(1967年)
台東区 谷中幼稚園
北区 滝野川第四小学校
都立北園高校
東京電機大学